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こどもの事とか虫の事とか

5歳の息子の壊れたおもちゃのその先。

 
 
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ころころと趣味趣向が変わるお年頃の5歳の息子が随分と長い間ハマり続けているスパイダーマン。映画も繰り返し何度も見てきたので主人公だけじゃなくヒロインやエキストラに至るまでのセリフも多少の違いはあれ、そらで言えるほどにまでなっていました。
 
そのセリフの中でもエキストラたちがスパイダーマンに向かって親しみを込めて言う「スパイディーゴー!スパイディーゴー!」が特にお気に入りのようで、ある時からスパイダーマンをスパイディと呼ぶようになりました。昔サンフランシスコに留学してた友人が帰国後、私のことを「あのさートーマスさー」と、急に名前で呼んできたあの違和感にも似たものを多少感じたりはしましたけども、それくらいに息子はスパイダーマンにどハマりしているわけでして当然その結果、おもちゃも買っておくれとなります。それではと8月のお誕生日にMARVELのスパイダーマンを買い与え息子も狂喜乱舞、そして先日右腕がもげました。この約2ヶ月の間、ある時はレゴ、ある時は仮面ライダー、そのまたある時には壁、冷蔵庫、テーブルの足、そして横になる私の足、手、腹。と、あらゆる玩具、家電、人間の部位との連戦の末、このような事故が起きたのです。そう、壊したんじゃない、壊れたんだと。言っておりました。
 

 

 

 

 

私は息子におもちゃや絵本を買い与えた時、必ず「大切にするんだよ」と言うようにしています。でも5歳ですから、そんなことを言われてもよくわからないだろうなというのは私も感じてはいます。現に息子も一応「うん」と返事はしてくれますが、途端にビリビリと包装紙を破き、そして箱を潰すようにしてこじ開け、大切にするとはつまりどういうことなのだろうとそんな考えを起こす間も無く、おもちゃ箱から戦い相手を引っ張り出してきて即戦闘。
 
でも、それも良い。私が伝えたいことはキレイに使ってほしいということではなく、壊さないようにつかってほしいとかでもなく、とにかく5歳児らしく思い切り遊んで遊んで遊んで、遊びまくって、戦いまくって、そして戦いまくったその先にもしその玩具が壊れてしまったら、その玩具をどうするのか、という考えを知ってほしい、ということなのです。でもそれを言葉で説明し理解してもらうことは難しい。ですから実際にこうして壊れた時にお話してみるのです。
 
玩具が壊れた。どうしようか、と。
 
壊したんじゃない、壊れたんだと、弁解して怒ったり泣いたりの息子。でもそうじゃなくて、もしこれを直すことができたらどうする?壊れてもすぐに遊ばなくなったり捨てたりするんじゃなくて、もしかしたら直せるかもしれないよ。もちろん直せないときもあるけど、どうする?そういう話をしてみるのです。
 
私の父は電気技師で特注品なんかをデザインして商売をしていました。見た目は強面で家族も近寄りがたい人でしたが、本当にモノを大切にする人でした。父の口癖は「お前はモノを大切にせんなあ」で、たびたび言われてきました。ただ、”家電父さん”の顔も同時に持ち合わせていた父は玩具や漫画の類は渋っても最新のMDウォークマンなどは「大切に使うんやったら買うたる」と、お決まりの日曜の家電量販店巡りの際にはそうして父の方から購入を勧めてきたりすることがありました。古くなって使えなくなった家電は取引先のメーカーに引き取ってもらうこともありましたが、必ず一度や二度はビデオデッキであれ、ブラウン管テレビであれ、蓋を開け、どこが悪いのか直せるのかと修理をしていた父の姿を思い出します。
 
父の仕事用の車のトランクを開けると、そこにはあらゆる仕事道具が碁盤の目のように細く区切られた手作りの箱にきれいに収められ、ビスひとつ外には漏れておらずそれを見るたびに私はいつも「神経質な人だなあ」と少しイヤな印象を持つこともありました。けれど私も父と同じように独立し、仕事をするようになると、あの頃の父の言葉がなんとなくわかるような気がします。モノが壊れるのは、たとえば投げ捨てたわけではなくても何かの拍子に落としてしまいそうなところに置いてしまうということはつまりどういうことになるのか、またそれを落とした時どうするのか、逆にきれいな状態を保つことだけで大切にすると言えるのか。道具というものが自分にどれほどの恩恵を与えてくれるのか。道具は目一杯使え、そして磨くことで美しさを保ち、それでも壊れたら一度は直せるかを考えろ。「お前は本当にモノを大切にせんなあ」今はもうその意味を確かめることはできないけれど、父の背中はそんなことを伝えたかったのかなと思ってみたりしています。
 
息子が壊したスパイダーマン。いや、息子曰く壊れたスパイダーマン。
 
壊れた玩具のその先。
 
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これですね。どうやら肩のところについていたジョイントが上腕部に持っていかれた形で折れています。
 
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なのでまずは上腕部に折れてめり込んだジョイントに少しドリルして、その出来た穴に針かなんかを使って引っ張りだします。
 
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ドリルします。
 
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ドリルして引っ張りだしたジョイントを今度は元の肩にくっつけてやります。
 
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その際、折れていますから針金みたいなのを支えにして接着剤を塗りこんでいきます。そして乾かします。乾いたら余分な針金をニッパーで切り落とします。それから元のように上腕部にジョイントを差し込んでいきます。
 
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イエス。
 
とはいえ、生涯骨折中です。
 
 
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ブリケツだぜ。スパイディ。ハハー
 
**
 
トイストーリーという映画があります。私はあれが好きで、1、2、3ともに名作なんですが、特に1。あのセリフなんです。
 
「お前はただのおもちゃだ!」
 
本物のスペースレンジャーだと信じてやまないバズライトイヤーにウッディがあまりにも強烈なひと言を告げるわけなんです。セリフの意味とは少し違いますけれど、当時はただの玩具、いつでも買ってもらえるとでも思ってたのか、大切にできなかったなと。なのであの言葉は深いなあと思うところがあるんです。ただの玩具にもちゃんと接することができれば物語が生まれるんじゃないかって。持ち主のアンディはそんなただの玩具たちを本当に大切にしていました。以前のようには遊ばなくなったとはいえ大学生になるまで捨てずにちゃんと持ち続けるんです。そこで3に繋がっていきます。ただの映画だと言えばそれまでですが、実は私もたったひとつだけボロボロなんだけれども箱も説明書もすべて揃った状態で今も大切に持っている玩具がひとつだけあります。アンディとは比べ物にはならないけれど、引越しのたびに何度ももういらないから捨てようかと思いつつもなんとか踏みとどまり、そして大人になり、子を持ち、息子にこれが私が子どもの頃に遊んでた玩具なんだよと伝えられることというのは、もはや私にとってそれはただの玩具ではなくなっているような気がするのです。トイストーリーの3の最後、アンディが大切なすべての玩具を小さな少女モーリーに渡すシーンがそれに重なります。
 
玩具も絵本も、息子を育んでいくとても大切なモノたちです。そして大切にしていくことと相反するようでいて捨てていくということも実はそれと同じくらい重要な作業。
 
壊れたり直したり、やがては捨てたりすることも、息子とモノとの間に生まれてくる物語となり、その中で大切にすることの意味を息子なりに感じていってもらえたらなと、そんな風に思いました。
 
おわり。